吉野川総合開発計
画 出
典:Wikipedia
小歩危ダム・Wiki
早明浦ダム・Wiki
新宮ダム・Wiki
吉野川・四
国整備局・吉野川歴史探訪 太平洋戦争の敗戦後、荒廃した日本の国土に連年台風が襲来し全国各地で水害による深刻な被害が続発した。…内閣経済安定本部は、河川を根本的に改修するこ とで洪水による被害を減らし、かつ有効利用することで食糧増産と電力増強を行い経済成長を早期に回復させるという目標を掲げた。その根本となったのが河川 総合開発事業であり、複数の多目的ダムを建設して治水と利水を行い戦後問題になっていた水害の抑止と食料不足の解消、及び工業地帯への電力供給による工業 生産力の回復を目指した。…VA方式での河川総合開発が全国各地の河川で推進されたのである。 戦後の吉野川水系の開発は、複数の事業者によって同時進行で進められた。先行したのは電気事業者で、日本発送電株式会社が過度経済力集中排除法の適用を受 け1950年(昭和25年)に分割・民営化したことで四国地方においては四国電力株式会社が四国四県の発電施設を全て継承した。既に…1939年(昭和 14年)に戦前では屈指の大ダムである大橋ダム(吉野川)が完成していたがこれら水力発電事業の拡充を図った。四国電力は1949年(昭和24年)に完成 していた長沢ダム(吉野川)や大橋ダム等の旧日本発送電施設を継承した他、さらに大森川や穴内川に発電ダムの計画を進めた。 一方、1938年(昭和13年)から内務省によって吉野川河水統制事業の予備調査が進められていたが、戦争により中断。銅山川分水も愛媛県と徳島県の対立 が解けぬまま中断していた。さらには1946年(昭和21年)に南海地震が発生、旧吉野川・今切川河口部で地盤沈下が発生し今切川樋門等の防潮施設が破 損、汐止め効果が減退した。こうしたことから吉野川水系の総合開発の必要性が問われた。 1949年、経済安定本部は全国の主要水系10水系を対象に、多目的貯水池による総合的な治水対策を柱とした「河川改訂改修計画案」を発表した。吉野川も 対象として選定され「吉野川改訂改修計画」が建設省治水調査会より経済安定本部に答申された。この計画において初めて早明浦(さめうら)ダムが登場。また 早明浦ダム直上流に桃ヶ谷ダムを、銅山川には柳瀬ダム下流に大野ダムを建設する計画を立てた。翌年には、吉野川改訂改修計画を発展させた「吉野川総合開発 計画」をまとめた。 1950年5月,「国土総合開発法」が制定され,この法律に基づいて1951.4に四国地方総合開発審議会が設立され四国総合開発の検討を開始。1953 年には同法に基づいて吉野川(水系?)もその調査地域に指定された[以上四国整備局]。それに先だち?[]以下wiki] 吉野川水系では1949年(昭和24年)に吉野川改訂改修計画が策定され、翌1950 年(昭和25年)には吉野川総合開発計画が策定された。経済安定本部 と建設省、四国電力、1952年(昭和27年)より加わった電源開発及 び四国四県の関係する機関・自治体は「四国地方総合開発審議会」を設置して吉野川水系の河川総合開発事業について協議・検討した。その結果 治水(洪水調 節)と利水(かんがい、水力発電)に焦点を当てた開発計画としたのである。これが「吉野川総合開発計画の原案ともいえるもの」[四国整備局]となった。 経済安定本部が示した原案では吉野川の本流に(現在の早明浦ダムに相当するダムと本項の小歩危ダムの)二つの巨大ダムを建設し、その下流に二ダムから放流 された河水を平均化させて下流への水位変化を抑制する目的を持った逆調整池(現在の池田ダム)の計三ダムを建設し、支流の大森川と穴内川、そして銅山川に もダムを建設して治水と利水を図ろうとするものである。この後修正案が二つ、電源開発からの案も二つ出され、原案と併せると五つの案が登場した。五 案の内四案は先述の巨大ダム二基を建設するのが柱となっており、一つは現在「四国のいのち」と呼ばれ四国四県の水がめとなっている早明浦ダム(さめうらダ ム)、そしてもう一つがこの小歩危ダムであった。 経済安定本部原案 原案におけ る小歩危ダムは高さ126.0メートル、総貯水容量3億750万トンという極めて巨大なダム計画であり、現在の早明浦ダムの規模に匹敵す る。仮 に完成した場合その湛水 (たんすい)面積は上流端が高知県長岡郡本山町の中心部付近まで及ぶ。目的は洪水調節、かんがい、水力発電の三つである。洪水調節 では上流の早明浦ダムや穴内川に計画された樫谷ダム(後の穴内川ダム)と共に吉野川の洪水を調節、ダム地点において計画された洪水量毎秒8,000トンを 毎秒3,050トン削減し、下流には毎秒4,950トンを放流する。かんがいについては銅山川に計画されている岩戸ダム(堤高136.0m・総貯水容量2 億8,900万トン・新宮ダム[堤高42.0m・総貯水容量1,300万トン]の前身・岩戸ダム計画は銅山川が伊予川と呼ばれる流域、徳島県三好郡山城町 (現・三好市山城町岩戸)、吉野川合流点から約2.0キロメートル上流の賢見温泉付近に建設が予定されていたダム計画)のダム湖との間で連絡水路を建設し て岩戸ダム湖へ導水し、そこから法皇山脈を貫くトンネルで愛媛県宇摩郡金田村(現在の四国中央市)に導水する。これにより既設の柳瀬ダム(1953年竣 工)と共に銅山川分水によって慢性的に水不足に悩む宇摩地域の潅漑を行う。 経済安定本部修正第一案 修正第一案では小歩危ダムや岩戸ダムの水没予定地の関係から両ダムの計画は削除され、その代わりに小歩危ダム下流部の三好郡池田町大田付近、祖谷川合流 点 下流に大佐古ダムを建設し、小歩危・岩戸両ダムの目的を統一させるという案である。この大佐古ダムは高さ146.0メートル、総貯水容量6億7,600万 トンであり、現在日本において最も貯水容量の大きい徳山ダム(揖斐川・岐阜県)をも超える超巨大ダム計画であったが、計画が巨大すぎたため 立ち消えとなっ ている。 経済安定本部修正第二案 修正第二案では小歩危ダムの規模が高さ106.0メートル、総貯水容量1億6,500万トンに縮小され、代わりに早明浦ダムの規模が高さ72.0メートル から高さ80.0メートルに高直しされ、総貯水容量も1億4,700万トンから1億8,800万トンに拡張されている。目的については原案と同一である。 電源開発B案 電源開発が呈示した二案のうちB案と呼ばれるものは、発電能力の増強を視野においている。小歩危ダムの役割は原案・経済安定本部第二案と変わらないもの の、規模が高さ90.0メートル、総貯水容量が1億600万トンに縮小されている。洪水調節については早明浦ダムの規模を第二案より拡大するほか、小歩危ダム上流に高さ33.0メートル、総貯水容量3,650万トンの敷 岩ダムを設けて小歩危ダムの減少分をカバーする。また潅漑については岩戸ダムの代わりとして岩戸ダム地点よりも上流の山城町大 野に高さ65.0メートル、総貯水容量4千150万トンの銅山川に高さ 65.0メートル、総貯水容量4,150万トンの大野ダムを設けて両ダム(小歩危と大野か?)間に連絡水路を建設し、香川県三豊郡へ導水す る。水力発電事業については早明浦ダムに吉野川第一発電所、小歩危ダムに吉野川第二発電所を建設して合計で185MW(下図だと182MW)の発電を行う(別に途中の敷岩ダムで33MW)。(宇摩への導水は消え たと云う事か?) 電源開発A案 電源開発が呈示したもう一つの案・A案では、小歩危ダムの役割が大幅に変更されている。それは小歩危ダムの目的が水力発電に限定され多目的ダムではなく なっているということである。規模も高さ38.0メートル、総貯水容量1千万トンと当初の原案に比べ大幅に規模が縮小された。この案では吉野川にダムを合 計6基階段状(早明浦・敷岩・永 渕・赤 野・小歩危・池田)に建設するのが最大の特徴となっている。早明浦ダムの規模は高さ92.0メートル、総貯水容量2億5,500万トンと現在の規 模に近くなった。 こうして複数の案が呈示されたわけであるが [四 国整備局] 中止へ 最終的には何れの案も採用されなかった。それは四国地方総合開発審議会の中における合意形成が図れなかったた めである。その最大の原因になったのが徳島県による吉野川分水への反対であった。徳島県にとっては…徳島平野の水源に吉野川を利用しており、慣行水利権を 古くから所有している。昭和30年代に愛媛県の銅山川分水が違法取水に及んでいたは四国電力が審議会からの離脱を表明した。それは電源開発の遅れが経常利 益に影響を及ぼしかねないことに苛立 ちを覚えていた四国電力が、水利権問題に解決を見出せない審議会に対して痺れを切らしたのが理由である。四国電力は離脱後単独ことが発覚したこともあり… 吉野川から必要以上の水量を愛媛県や香川県に 供給する分水計画には強硬に反対していた。このため関係自治体との調整に手間取り、計画は手付かずのまま長期化することになった のである。こうした膠着状態が続くうち、今度で徳島県と交渉を成立させ水 力発電事業に着手、大森川と穴内川のダム計画に着手した(両河川ともいずれも吉野川からの分水があるものの(ややこしい分水自体は)戦前に片付いている: 吉野川上流から取水する長沢発電所・ダムはダム工事着手が1941,発電所運開が戦後の1949に完成してい る。穴内川から取水する平山発電所(旧)・繁藤堰堤は発電 所が1909年に早くも完成してる。最大使用水量は長沢発電所は9.8m3/s,平山発電所(現)は21.50m3/sである。)。そして1959年(昭 和34年)に大森川ダム、1963 年(昭和38年)には穴内川ダムを完成さ せ、(混合)揚水発電による電力供給を開始した。この時点で(穴内川ダムが発電専用で建設された為)穴内川治水計画が消 滅した。そして吉野川総合開発計画は早明浦・小歩 危(後に中止)・池田の三ダム建設に絞られ岩戸ダム計画(→安本原案・新宮ダム として実現)は立ち消えとなった。 一方1960年(昭和35年)には「四国地方開発促進法」が施行され、1962年(昭和37年)には水資源開発促進法が成立して水資源開発公団が発足した が、吉野川水系は1965年(昭和41年)吉野川水系は水資源開発促進法に伴う指定河川となり、1966年に「吉野川水系水資源開発基本計画」(フルプラ ン)が作成された。これに伴い香川用水・吉野川北岸用 水・愛媛分水(銅山川分水)・高知分水計画が盛り込まれ、その水源として早明浦ダムが位置づけられた。吉野川の河川開発も時代の変化と共に 四国地方全体の最大の 課題である水資源開発にシフトしたのである。 建設省と電源開発は(これらの動きを受けて)再度吉野川総合開発の検討を行い、最終的に治水事業は早明浦ダムに絞り、小歩危ダムと池田ダムは発電専用とし て計画を進めることになった。1966年(昭和41年)の第44 回電源開発調査審議会において出力は合計85MWの揚水発電に規模を減らし、池田ダムで逆 調整を行う方針とし、小歩危ダムは電源開発A案に沿って高さ 38.0メートル、総貯水容量1千万トンの規模で計画変更が承認され、再度調査が開始された。 だがここで地元の猛烈な反対に遭遇する。小歩危ダムが建設されることにより、ダムサイト付近の小歩危に留まらず上流の大歩危も水没する。…1964年に剣 山国定公園にも指定された風光明媚な景勝地である。…自然環境保護と観光資源保護の観点から地元を中心に反対運動が盛り上がった。また吉野川沿岸を走る国 道32号や土讃本線の付け替え問題もあって計画は頓挫に等しい状況になった。 1962年に香川・愛媛側を一度は徳島の多額の費用に対して徳島県民の住民感情を尊重するための出資に合意しておきながら、1964年に入り、建設費多額 や徳島の新規用水が安い事を理由に出資拒否したためである。国は愛媛・香川県の強硬な反対に負け、徳島県側に全額負担の依頼を申し入れ、結局この問題は架 橋問題で国の心証を悪くすることを避けたい徳島県側が折れる事になった。これに対して、交渉に当った徳島県武市副知事(1965年の知事選では当選した武 市恭信と公認を争い,1967年に徳島市長に当選し,1973年の知 事選では社会、公明、民社各党の推薦を受けて戦ったが敗北した武市一夫の 様だ。後藤田氏の公認を巡り三木派と非三木派の対立が表面化するのは翌1966年の参院選に向けての様で,この時は自民党は一丸となって恭信氏を推したよ うだ[徳島新聞][wiki])。) は「到底受け入れがたい。徳島の住民感情は激しく踏みにじられた」と憤りを隠さずに語った。 1947年より貞光町長を三期務めた後、1963年に衆議院議員に当選していた武市恭信は「徳島に橋を、香川・愛 媛に水を、高知には道路を」をスローガンとして1965年に徳島県知事に当選し、圧倒的多数が反対であった徳島県議会を1年がかりで説得 し、香川用水導水実現に尽力した。[wiki] [wiki] 一方で、早明浦ダムは1963年(昭和38年)より建設省四国地方建設局が実施計画調査を行っていたが、1967年(昭和42年)4月に吉野川水系水資源 開 発基本 計画に基づき早明浦ダムと池田ダムの事業主体が公団に移管された。こうして四国最大の早明浦ダム事業が着手されることになったが,(頓挫状態の小歩危ダム の事業主体は宙に浮く形となり?)小歩危ダムを利用した電源開発計画は事実上不可能となり、こうした経緯もあって小歩危ダム計画は1971年(昭和46 年)の第56回電源開発調査審議会において中止することが決定され、電源開発は早明浦ダムを利用したダム式発電所に事業を変更することとなり、小歩危ダム で開発されるはずだった利水容量については早明浦ダムの堤高を100mから106mに変更し、小歩危ダムによって開発される量の倍以上の約4300万トン が確保されることになった。また、早明浦ダムの計画変更については徳島県が費用を負担することとなり、小歩危ダムの開発中止によって吉野川 総合開発で利水 容量で不利を被ったという事実は存在しない。 早明浦ダムは1963年に着工され1975年に竣工している。 |
期間 |
取水量 |
その他 |
6/1~30 |
12.007m3/s |
|
7/1~9/30 |
13.981m3/s |
|
10/1~10 |
9.531m3/s |
|
10/11~4/15 |
1.923m3/s |
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4/16~4/25 |
2.823m3/s |
|
4/26~5/20 |
4.672m3/s |
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5/21~31 |
7.622m3/s |
池田ダム・香川用水取水工→(トンネル水路)→東西分水工→調整池→東
部幹線水路 出典:水 機構
水道が満濃池で有名なまんのう町だけ対象に入ってないの同町だけは満濃池で事足りているということか? |
あと落差少ない(池田発電所の有効落差が10m程度)ので舐めてたけど池田ダムでかかった。流石四国 三郎。誰にも迷惑掛からないのでもう5mぐらい満水位上げてもいいんじゃないか?併せて放水地点をR32の四国中央橋付近まで延ばせば水力発電の出力倍増 が出来る。 pic.twitter.com/UGOotRyGfo
— とはずがたり (@tohazugatali1) February 11, 2022
(祖谷川合流→こちら参照) 三縄発電所[水力][DB] 四国電力(株) 所在:徳島県三好市池田町大利 運開:1912 [四国水力・旧三縄発電所]改修:1959 [四国電力・新三縄発電所] ダム水路式・調整池式 認可最大出力:7,000kW 常時出力:1,400kW 最大使用水量:14.60m3/s 有効落差:57.60m 水車:最大出力7300kW×1台 導水路:総延長1712.7m 流域面積:249.12km2[DB・間接] /352.8km2[DB・直接] 取水:祖谷川[三縄ダム]154.00m 放水:祖谷川[ほぼ池田ダム(取水位87.8m)]92.80m 三縄(みなわ)ダム[便覧][DB・DB] [→祖谷] 河川 吉野川水系祖谷川 目的/型式 P/重力式コンクリート 堤高/堤頂長/堤体積 17m/80.8m/21千m3 流域面積/湛水面積 850.1km2 ( 直接:249.1km2 間接:601km2[紊乱…もとい便覧] ) /7ha 間接流域 600km2なんて何処に隠してあるんだ!? 総貯水容量:29.9万m3 有効貯水容量:18.3万m3 最高水位[常時満水位] :154.00m/ 最低水位: 151.00m/ 利用水深: 3.00m ダム事業者 四国電力(株) 着手/竣工 1957/1959…新三縄発電所は調整池式に改修されたということのようである これも有効活用するにはのんびり流れる吉野川から導水するのがよい。 154mの高さから持ってくるとなるとこ の辺(三好市山城町下名(しもみょう))となる。導水路約12km。 約30m3/s,29.20m3/s取水すると三縄の出力を3倍増出来る。 調整池の有効貯水容量は18.3万m3。最大使用水量が14.6m3/sだから876m3/m,52,560m3/hであり,凡そ3時間半持つ計算にな る。 (新々)三縄発電所 出力:21,000kW[+14.0MW] 使用水量:29.20m3/s(+14.60m3/s) 導水路:総延長14km 取水:祖谷川[三縄ダム]・吉野川[下名頭首工] 問題は,大歩危・小歩危の水流がどの程度減じるのか,だな~。。下流の池田が62m3/sなので10m3/s位は余裕で流せそうではあるけど。 |
~銅山川~→全体はこちら参照 吉野川との合流部 24.7 伊予川発電所相川取水堰[場 所][DB] 此処に取水堰があるのはDBに取水堰数2とあり,また四電の資料にも取水堰っぽい記述があるから判明する。 岩戸ダム(計画①③案=吉野川 綜合開発参 照) 堤高: 総貯水容量: 伊予川発電所銅山川取水堰[水力] [DB] 堤高:14.00m 堤長:75.40m 取水:銅山川(伊予川) 送水:伊予川発電所(9.0m3/s) 取水工 吊り橋は解放されており,脇の小学校に通う児童らが使う様であった。 現在は岩戸地区(の一寸北側)に伊予川発電所の取水堰がある。岩戸ダムが出来たら水没していた感じか。 良くあるダム好適地に先に発電所があったやつか。 大野ダム(計画④⑤案=吉野 川綜合開発参 照) 新宮ダム |
~白川谷川~ 吉野川との合流部 白川発電所は地滑りの危険で廃止されてしまったが,復活を検討してみた。 |
ダム | 河川 | 現行規模 | 吉野川改訂 改修計画⓪ |
経済安定本部 原案① |
経済安定本部 修正第一案② |
経済安定本部 修正第二案③ |
電源開発B案 ④ |
電源開発A案 ⑤ |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
早明浦ダム | 吉野川 | 106.0 316,000,000 |
72.0? 147,000,000? |
72.0 147,000,000 |
72.0 147,000,000 |
80.0 165,000,000 |
92.0 255,000,000 |
92.0 255,000,000 |
小歩危ダム | 吉野川 | - | - | 126.0 307,500,000 |
- | 106.0 165,000,000 |
90.0 106,000,000 |
38.0 10,000,000 |
池田ダム | 吉野川 | 24.0 12,650,000 |
- | 17.0 14,800,000 |
10.0 5,700,000 |
17.0 14,800,000 |
17.0 14,800,000 |
17.0 14,800,000 |
~藤川谷川~ 吉野川との合流部 |
~赤根川~ この先の南小川で発電する東豊永発 電所放流水と併せて開発したい。 赤根川地図 霧石高原地図 |
~南小川~ 東豊永発電所など 南小川は永渕ダム(予定)より上流に流れ込むが,下流に導水して発電する計画を構想したので此処に置く。 |
~奥太田川~ 大田口発電所など |
早明浦・山崎ダムによる人為的な水位変動 早明浦ダム~山崎ダム~池田ダムの吉野川上流約63km(吉野川全長は194kmなので、約32%)は、池田ダムの湛水区間約6kmを除くと、通常時は早 明浦ダムからの放流水が川の水量の大半を占め、放流操作により、大きく水量が変動する。 早明浦ダム~山崎ダムの約11kmは、発電放流により放流なしから60トン/sまで乱高下。 山崎ダムから下流の約56kmも、山崎ダムの逆調節機能が不十分なため、時間単位の大きな変動が常態化している。 ダムによる人為的な水位変動を改善するための提案 逆調節機能は十分効果を発揮しないのは、容量不足のせいかもしれないが、どうみても、早明浦発電所との連携不足としか思えない、ルーズな操作。 山崎ダムに魚道の設置 山崎ダムはそれほどの落差がない「堰堤(えんてい)」(日本では高さ15m以上をダム、未満を堰堤という)なのに、建設時に魚道を付設しなかった。このた め、アユなどの回遊魚がこれ以上、上流へ遡上できない。 出典:専門救助研究所
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~汗見川~ さしあたって対象とする汗見川(凄い名前だw)の標高は結構低いので渇水期に真価を発揮すると考えて取水面は325m程度とする。満水の時は取水しない感 じになろう。 そう考えて見て見ると323m 地点にお誂(あつら)え向きの堰があるような。まあこの地点で取水することにしよう。水位が足りないとかあったら堰の嵩上げで対応。 そもそもなんか農業用水でも取水してるのかと念の為,調べたらなんと早明浦用の導水ダム,しかも電発所有だから発電用!,だった様だw 便覧にはダムの立地が「吉野ツバキノ」となってるけど吉野は早明浦ダム本体の立地地名なので誤りであろう。 汗見ダムの立地は南岸が大田羅,北岸は嵯峨野と云うらしい。 24.7,久々の調査行で四国入り。毎度凍結だのパンクだの霧だの何かが起きる四国行であるが,前日には大雨で松山城の石垣が崩れる不穏な空気の中,息子 の部活が中止のワンチャンスに決行。 満濃池やら伊予川発電所取水堰やらを見て順調に吉野川を駆け上り,早明浦ダムを見て最後,夕刻迫る中,最後の汗見ダムへ向かうが,立川川付近からざんざん 降り続く雨が更に激しくなり,ダム手前1キロ強(こ こら)で無念の撤退決断となった。 まあ本稿書くに際してス トビュウみたらあっさり最大目標の利水票みれたんだけど,, 取水堰[場 所EL.253m] 潅漑? 拡大 上流方面。割と水が貯まっている。 堰[場 所EL.251m] 汗見ダム[便覧] 電源開発(株) 目的:発電 堤高/堤頂長:18.5m/63.5m 流域面積/湛水面積 51km2 ( 全て直接流域 ) /2ha 総貯水容量/有効貯水容量 79千m3/29千m3 竣工:1972 取水;汗見川(7.0m3/s[→ ストビュウ]) 送水:早明浦ダム(吉野川)→早明浦発電所 なにはともあれ俺如きの考える事はとうに当事者は考えており実現してると云う事だなw まあ前向きに考えれば私の発想は正しいということだろう♪ |