wikiに
拠ると岡崎を発祥として地盤とする岡崎電灯が成長して三河地区の電力を統合した中部電力(株)という会社があり,戦後の中電と区別して中部電力(岡崎)と
書かれることもあるこの会社は電力供給能力の向上に努め, >中部電力は建設中の段階で同社(第二富士電力)と電力受給契 約を締結し、 出力全部を受電するとともに自社で発電所から自社変電所まで送電線を建設することとなった[46]。1935年3月に湯山発電所は出力2万4000キロ ワットで竣工し、同時に中部電力への供給が開始された。湯山発電所か らは、西渡発電所に 至る約43キロメートルの間に77キロボルト送電線が架設され、既存送電線によってさらに豊橋市郊外の玉川変電所へ送電された。上記のように増強された電 源に対して、電力の供給先としては、1934年時点では日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎事業所)、日清レイヨン岡崎工場(後の日清紡績美合工 場)、内外綿安城工場などと契約していた。 とのこと。wikiに 拠るとそもそも富士電力は今でもある富士紡(しらんなあ。。)の系列会社だったそうな。 それにしてもこんな所に西渡発電所が出てきて寸又峡の奥地と繋がってたとは!電発の遙か前から佐久間辺りはもっと東と直結してた様だ。 また岡多線の北岡崎に専用線のあったユニチカ,名鉄本線美合に専用線のあった日清紡など迄出てくる始末♪因みに中部電力は名古屋をその地盤の一つとする五 大電力の一つ東邦電力と関係が深く,後に東邦電力に吸収合併されることとなる。名古屋のガス会社は今でも東邦ガスであるが,電力会社は東邦電力ではなく中 部電力として戦後発足している。 |
【佐久間河内川導水】 佐久間河内川(河内という川が水窪にも佐久間にも長野との県境にもあってややこしく,また寸又の 所でも河内が付いた川がいっぱい出てきたが,此処らで河内(寸又界隈では「こうち」と呼んでいた)は沢の事らしい。あちこちにある「ひら」は平らな場所で は無く崖,「なぎ」は風が無い穏やかな凪ぎではなく崩れの事で今の日本語の感覚だと解らないけど生半可漢字を宛ててしまって語感が失われてしまった様だ。 こうちは河内を書くようにかわうちなんだろうけど谷や沢を川の内って呼ぶ感覚がいまいち解らん。)からの取水を検討。 西渡発電所へ送るか佐久間ダムへ送るかの選択。 佐久間ダムに送るより西渡PSに送る方がもう一寸標高が低くて良いので流域は広く取れる。けど流込式の西渡では貯留が出来ず秋葉ダムに直送せざる得ないの で貯留を考えると佐久間ダムへ送った方が良 いことはよい。 もし佐久間ダム導水をやるとすると西渡導水の残りは0.62km2。両立は不可。 面積としては狭小で,ここは西渡の流域確保が優先かな。。佐久間ダムへは取水口3箇所にするか堰堤の建設で一箇所に纏めるかの必要もあるし。 佐久間河内川・西渡発電所導水: 流域:6.78km2 導水距離:2.4km 取水位:210m 6.78km2*400万m3/km2*(1/3~1/4)=904~678万m3/年 佐久間河内川・佐久間ダム導水: 流域:6.21km2 導水距離:1.76km 取水位:250m 2,400万m3 →佐久間ダム 佐久間ダムへ: 流域:6.21km2 導水距離:1.76km 取水位:250m 標高的に3箇所に分散して取る必要があって不効率ではある。。実際には満水位は260mなのでもっと上から取水した方が良いかも知れない。 出水時ではなく渇水時に水が欲しいのかも知れないけど此処は西渡ダム建設によって佐久間市街地 に流れ込む水を減らしたいってのもある。 流域はこんな感じ。計り直すと随分面積減った。。こ の支流域を諦めたせいか。 堰を造って取水し直せば6.2km2程になる。出来れば260m程度のサーチャージ満水位が欲しいので堤高35m程のハイダムとなる。 |
流域 |
導水距離 |
その他 |
摘要 |
|
相月沢川 | 8.3km2 |
0.5km |
水窪川要渡河 |
|
横吹・立原 |
1.6km2 |
0.0km |
二箇所 |
|
佐久間河内川 |
6.8km2 |
2.4km |
△:ちと遠い |
|
福沢川 |
7.6km2 |
1.2km |
水窪川要渡河 |
|
仙戸 |
2.2km2 |
1.2km※ |
〃 |
※福沢川迄 |
小計 |
26.5km2 |
5.3km |