上
流側 |
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在来ルート |
新ルート |
大
船渡ダム(41.2万m3・
受:193m3/s・送:159.0m3/s) |
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(益田川・馬瀬川合流点)
大船渡発電所(64.0m3/s・6.4MW・0.1)七宗ダム(312万m3) 七宗発電所(50.0m3/s・6.2MW・ 0.124) |
新七宗発電所(95m3/s・20.0MW・ 0.21) |
名
倉ダム(382万m3・受:145m3/s・送:
168.5m3/s[EL198.5m]) |
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名倉発電所(80m3/s) 上麻生ダム(251 万m3→木曽用水9.54m3/s) [EL.157.67m] 細尾谷 (ほそびだに)ダム1.7万m3 上麻生発電所(62.5m3/s・27.0MW・放99.95m) |
新上麻生発電所(88.5m3/s・61.4MW・放93.7m) |
(飛水峡) 川辺ダム(172万m3・94m・受:151.0m3・送:155m3/s) |
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川辺発電所(30.0MW・
155m3/s・
放69.5m) (木曽川・飛騨川合流点)
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美濃川合発電所
(23.4MW・220m3/s・取70.5m) |
今渡発電所(20.0MW・200m3/s・取:70.5m) |
太
平洋側 |
発電所名 |
最大使用水量 |
有効落差 |
発電力 |
ダム高さ |
有効容量 |
とは記入備考 |
新七宗 |
150.0m3/s |
28.8m |
36,800kW |
既設大船渡ダム利用 |
新七宗として実現(最大使用水量95m3/s・有効落差24.57m・
最大出力20,000kW) |
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新名倉 |
150.0m3/s |
84.8m |
108,500kW |
23.5m |
450,000m3 |
新上麻生として実現(最大使用水量62.50m3/s・有効落差
51.3m・ダムは既存名倉ダムを利用) |
佐見川 |
100.0m3/s |
175.6m |
150,000kW |
98.0m |
35,000,000m3 |
実現せず |
[水
資源機構] 木曽川用水上流部の水道用水供給地域 水道用水供給地域マップ 取水施設 白川取水施設
|
~神渕川~ [廃止]神渕 川発電所[『飛騨川』中電(1979)] 上麻生村本郷字渡合 運開:1920.8[神渕川水力]・譲渡:1921.8[東邦電力] 出力:160kW 水量:0.70m3/s 落差:32.12m 休止?:1967年 廃止:1668年 |
発電所名 |
分類 |
出力 |
水量 |
落差 |
その他 |
七宗 |
既設 |
6,200kW |
50.0m3/s |
15.57m | |
新七宗 |
新設 |
118,000kW |
220.0m3/s |
61.1m |
|
新七宗 |
実現 |
||||
名倉 | 既設 |
22,200kW |
80.00m3/s |
34.12m |
|
新名倉 |
新設 |
65,100kW |
208.00m3/s |
37.2m |
→実質的に新上麻生として実現。大巾に使用水量は減ったな。。 |
上麻生 |
既設 |
27,000kW |
62.55m3/s |
51.30m |
|
大柿 |
新設 |
45,500kW |
232.0m3/s |
23.3m |
→実質的に新上麻生として実現。大巾に使用水量は減ったな。。 |
中麻生 |
新設 |
44,500kW |
130.0m3/s |
39.7m |
→実質的に新上麻生として実現。大巾に使用水量は減ったな。。 |
新上麻生 |
実現 |
61,400kW |
80.0m3/s |
88.5m |
|
川辺 |
既設 |
30,000kW |
155.0m3/s |
24.20m |
今渡ダム[wiki] ダムとしては木曽川最下流にあり、上流での水力発電によって変化した 河川流量を自然の状態に戻して下流へ放流する逆調整の機能を担う。 完成は1939年(昭和14年)。電力会社管理ダムであり、建設時は木曽川開発を手掛けた大同電力と飛騨川開発を手掛けた東邦電力が共同出資する、愛岐水 力株式会社という電力会社が管理した。 1924年8月、完成した大井ダムが貯水を始めると、木曽川ではある問題が発生する。当時、大井ダムの下流側には木津用水・宮田用水・佐屋川用水の3つの 農業用水があった(1929年羽島用水が完成し4つとなる)が、渇水期にこれら農業用水での取水が困難になったのである[7]。これは、深夜など発電が不 要な時間帯にダムへと貯水し、発電時にダムから放流する、というダムの流量調節に伴いダム下流側において毎日の流量変化が大きくなったことにより生じた [7]。特に大量の取水をする宮田用水への影響が大きく、同用水の下流地帯では水不足を原因とする水争いが頻発したという[7]。 その後も灌漑期の水位変動や工事費の負担をめぐる用水組合と大同電力とのトラブルは続き、1930年(昭和5年)には木津・宮田両用水における工事費の負 担を大同電力が拒否したため、2つの用水組合と会社側の紛争が再燃、組合側がダムの流量調節の停止を命令するよう政府などへ陳情する事態となった[8]。 愛知県が調停役とする用水組合と大同電力との協議の結果、費用負担は従前通りとすること、灌漑期間中は常に水位調節に腐心すべきこと、という組合側の主張 を会社側が認め、この紛争は沈静化した[8](→昭和29年、木曽川総合開発の一環として宮田、木津、対岸の羽島用水の取水口を統合する犬山頭首工の建設 にいたる[水土]) 上流ダムによる流量調節の結果生じる下流への影響を抑えるために大同電力が計画したのが、河川流量を自然の状態となるよう放水する逆調整ダムの建設である [9]。逆調整発電所の建設は、木津・宮田両用水組合も1933年(昭和8年)に国や県へ陳情するなどその実現を求めていた[10]。 昭和のはじめ、大同電力は飛騨川合流点直前における逆調整発電所「今渡第二発電所」を計画し、その建設許可を申請した[11]。一方、当時飛騨川開発を手 がけていた東邦電力(名古屋電灯の後身)は木曽川・飛騨川合流点直上の飛騨川方に逆調整発電所「森山第二発電所」を計画し、その建設許可を取得した [11]。かくして木曽川・飛騨川合流点付近に2つの逆調整発電所が計画されたが、どちらも不況による電力の過剰から計画中止状態となっていた[11]。 停滞する逆調整発電所計画に対し、大同電力と用水組合の対立が続く中でその対策を講ずる必要に迫られた内務省と岐阜県当局は、2つの逆調整発電所計画を合 同するよう両社に慫慂した[11]。これを受けて大同電力・東邦電力は協議を進め、大同からは今渡第二発電所、東邦からは森山第二発電所の水利権をそれぞ れ提供し、新会社を共同で設立した上で木曽川・飛騨川合流点直下にダムを築造し共同逆調整発電所「今渡発電所」を建設することとなった[11]。1933 年5月、今渡発電所の水利使用許可を申請し、1935年(昭和10年)4月にその許可を取得した[11]。 水利権の許可取得後の1935年7月20日、資本金500万円、大同電力・東邦電力の折半出資にて「愛岐水力株式会社」が設立された[11]。初代社長に は東邦電力社長の松永安左エ門が就任し、以降は1年ごとに大同側・東邦側交代で務めることとなった[11]。また発電所の完成後は発生電力を2分割し両社 同一条件にて受電すると定めた[11] 着工準備ができた今渡発電所(今渡ダム)であったが、今度は舟運・流筏・玉石採取・漁業などの業者から生活を脅かすとして猛烈な反対運動が発生し、用水組 合からも逆調整に疑念を抱くとして了解が得られなかった[11]。岐阜県・愛知県当局の調停により1936年(昭和11年)6月着工に漕ぎ着ける [11]。工事中の洪水被害や、日中戦争による人的・物的影響が工事の障害となるも、1938年(昭和13年)12月末をもって工事は終結した[12]。 土木工事請負業者は間組である[13]。 今渡ダム工事中の1936年、大井ダムとの中間に笠置ダム(笠置発電所)が建設された。これに伴い大同電力は1937年4月、灌漑期間中は笠置ダムの水量 調節を停止し、ダムに達する全水量を均等に放流することとしたため、以後用水組合に対する寄付(施設改良工事費の負担)を打ち切るという旨を通告した [10]。この一件で大同電力に対する特に宮田用水組合の不信が強まり、今渡ダムが完成して仮貯水を始める段階になると、同組合は愛知県に対しダム操作規 定に組合の主張が反映されなければダムの操業を拒否するよう要望している[14] 宮田用水組合と電力会社の対立はダム完成後も続いたが、1942年(昭和17年)5月、内務省名古屋土木出張所の仲介によりダム操作規定について両者が了 解点に達し、加えて電力会社側(後述の通りこの時点では愛岐水力ではなく日本発送電)が宮田用水組合に10万円を寄付してこの問題は解決した[15]。こ の問題以外にも、砂鉱業権や下流船運などの問題があったが、買収または補償などの方法で処理されている[16]。 天端部分は基礎岩盤から33.4メートルの高さにあり、その標高83.3メートルに対し、満水位は70.5メートルに達する。 ダムによって形成される調整池の総貯水容量は947万200立方メートル。うち利用水深3メートル以内の有効貯水容量は392万2200立方メートルであ る。また湛水面積は1.5平方キロメートルに及ぶ(数字は2008年3月末時点[1])。なお竣工当初の総容量は677万2900立方メートルであった [13]。 今渡ダム右岸に位置する関西電力美濃川合発電所は、ゲートから放流するため発電に用いていなかった水量(年間180日程度のゲート放流が生じていた)を活 用すべく計画された発電所で[24]、1995年(平成7年)5月24日に運転を開始した[19]。ダム式発電所であり最大出力は2万3400キロワット (23.4MW) で運転されている[19]。 |