(桧原湖) |
【桧原湖発電】 ▲ 満水位EL822mの桧原湖に対して小野原湖はEL.797m程度の様だ。 こ こに水路も建設されている様[自 然の水路はこれ?]だし桧原湖から小野原湖への通水を利用して発電が出来るかも。 小野川発電所地点ですら63.50m3/sも使えてるのであるから桧原湖でも30~40m3/sは使えるのではないか? [私案]桧原発電所 出力:8,300kW[+8.3MW] 水量:40m3/s 有効落差:22m 取水:桧原湖822m 放水:小野原湖797m |
(小野原湖) |
(秋元湖) |
【秋元湖上流部発電】 ▲ [私案]奥秋元発電所 出力:9,000kW[+9.0MW] 水量:5.3m3/s[1.42] 有効落差:200m 流域:37.3km2 導水:7.8km 取水:小倉川・井戸尻川・大倉川・唐松川940m 放水:秋元湖735m |
~酸川~ |
【秋元増強】 [私案]酸川堰堤[場所] 導水距離5.3km+2.3km=7.6km 流域:27.0km2(酸川・硫黄川)+28.0km2(小酸川・中ノ沢川・赤留川・逢沢川)=55.0km2 [私案]酸川堰堤[場所]/逢沢堰堤[場所] 取水位/放水位:760m 導水距離:6.7km 流域:53.4km2 面積は1.6km2程減るが導水を900m程短縮出来る。 但し逢沢川には堰堤が必要になる。。 |
【沼ノ倉増強】 沼ノ倉の下を追っていて馬鹿でかい面積がある事が発覚。沼ノ倉発電所も常時出力2%なんかに甘んじてい る場合では無い。 秋元発電所に対して50km2弱しか流域が増えてないのは可怪しいと詳しく見て見ると,酸川・沼尻高原方面から取水してない様であった 今の酷い沼ノ倉の常時出力は改善されるであろう。 更に酸川の上流からの取水も行けそうである。EL.680mでH=110m程とれそう。調べて見ると70km2程である。 余り雨が降らない土地のようであるのが残念か。。 出典:阿 賀野川河川事務所 その上でもう一箇所二箇所発電所新設を検討するも距離が長くなってしまったりなんだりで巧く行かず。。 秋元湖への導水で我慢をしておくべきか? |
【最下流発電】 猪苗代湖までなお28m程残余落差あり。 常時出力が小さいのが気になる(発電電力量が少ない可能性がある)が,まあ開発してみる。 調べて見ると沼ノ倉発電所放水地点で新規に取水出来る流域は150km2近い。極小の常時水量に甘んじ ている沼ノ倉PSももっと取水出来る筈だ。 [私案]猪苗代発電所 出力:12,700kW[+12.7MW] 水量:60m3/s 落差:25m 導水:5.8km 取水:長瀬川[沼ノ倉発電所] 539.80m 放水:猪苗代湖511m |
(猪苗代湖)EL.511m |
戸ノ口堰地区の沿革[水土里](とはずが
たりが適宜加筆) <第一期> 戸ノ口堰は…1623 年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野[八 田はここら])の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に 願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。 それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ 打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しまし た。しかし…資金がどうしても続かずに途中で中止せざるを得なくなりました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。 それにより、約15年 かけて八田分水[どこ?]まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助…は八田堰の堰守に任じられ、そ の土地の用水堰は「八田 野堰」と名付けられました。 <第二期> それからも引き続き開削が進められ、1638年には鍋沼ま で到達し、それから3年ほ どかけて河東町の八田野 まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。 <第三期> 河沼郡槻橋村(今の河 東町槻木[こ こか])の花積弥市という人が、長原[多 分此処]の新田を開拓したいということで、鍋沼から一箕[こ れか?]の方を回った水路を造りました。 <第四期> 1693年に 北滝沢村(今の一箕町北 滝沢[こ の辺])の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも 水を持ってきたいということで開拓しました。長原新田から滝沢峠[こ こら?]を通り、不 動川の上を渡し[こ れか]、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山[こ こら]の方まで持ってきたといわれています。(この工事で)当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで(繋がり,その間の距離は)約31kmあり、1693年には八田 野堰から戸ノ口堰に改名さ れました。 当時、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になりました。そ のため、会津藩としてはどうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいという願いがありました。 <大改修> それから約140年以上経った1832年(天保3年)、時の藩主・松平容敬公 が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。1623年以降212年経過しており、山間部を通っ てくるため、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなるということで、堰幅、深さを広げました。飯盛山の山裾にある水路も崩れがひどいため、3年程かけて 洞窟約150mを掘りました。慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、この洞窟を通って飯盛山に登り、自害したとい う有名な話があります。 <安積開拓事業> 明治15年、失業武士を救済するための安積開拓事業に伴い、十六橋水門の工事を行いました。オランダの土木技師ファン・ドールンを招いて、十六橋に水門 をつくり、湖の水位を高くして安積平野に水を引きました。十六橋水門は安積疏水土地改良区の管理ですが、近年は福島県が治水管理を行っています。戸ノ口堰 土地改良区はもともと既存の水利として十六橋の箇所を持っていたため、現在は十六橋水門の一門と二門が戸ノ口堰 の取水口となっています。 戸ノ口堰用水の歴史[水 土里][戸ノ口堰小水力発電(株)] 1623年(元和9年) 八田野堰開削 1693年(元禄6年) 第4期工事開始 若松まで通水。堰名を戸ノ口堰と改名 1832年(天保3年) 会津藩士佐藤豊助の藩命により、戸ノ口堰のうち飯盛山の山腹役150m区間が延べ55,000人もの人夫の手でトンネル化されま した。これにより会津の水田約2,500haに猪苗代の水が供されるようになりました。 1891年(明治24年) 水利組合法により「戸ノ口堰用水普通水利組合」を創立 1929年(昭和4年) 若松市上水道滝沢浄水場完成 1952年(昭和27年) 土地改良法の制定により「戸ノ口堰土地改良区」に組織を変更 1973年(昭和48年) 戸ノ口堰地区県営かんがい排水事業着工 1983年(昭和58年) 県営ため池等整備事業着手。強清水・金堀地区 出典:水土里 |