愛本堰堤 |
黒東合口用水:黒東第一(5.3MW・
52.87m3/s)─黒東第二(10.4MW・43.0m3/s)─黒東第三(7.2MW・
36m3/s・放水位42.82m)─ |
黒西合口用水:黒西第一(6.8MW・
18.64m3/s)─黒西第二(2.2MW・13.0m3/s)─黒西第三(1.3MW・
13.0m3/s/・放水位26.69m)─ |
■地区平面図 |
\期間 区分\ |
1月1日から 2月末日迄 |
3月1日から 3月31日迄 |
4月1日から 4月10日迄 |
4月11日から 5月15日迄 |
5月16日から 7月25日迄 |
7月26日から 8月15日迄 |
8月16日から 9月15日迄 |
9月16日から 12月31日迄 |
右岸取水口 |
13.60m3/s |
18.30m3/s |
23.21m3/s |
51.273m3/s |
39.216m3/s |
37.660m3/s |
33.821m3/s |
23.21m3/s |
左岸取水口 |
5.926m3/s |
7.913m3/s |
9.638m3/s |
21.919m3/s |
16.470m3/s |
15.836m3/s |
14.264m3/s |
9.638m3/s |
出島取水口 |
0.204m3/s |
0.322m3/s |
0.402m3/s |
1.075m3/s |
1.126m3/s |
1.075m3/s |
0.946m3/s |
0.402m3/s |
計 |
19.730m3/s |
26.540m3/s |
33.250m3/s |
74.267m3/s |
56.812m3/s |
54.571m3/s |
49.031m3/s |
33.250m3/s |
黒部川の扇状地は,昔「黒部四十八ヶ瀬」と言われた如く,流水は自由奔
放,洪水毎に氾濫,移動を繰り返し,数多くの分岐・合流を形成し,いずれが本流か定
かでは無かった。 その本流は,往古,現在の黒西部を流れ石 田(現在は黒瀬川の河口)で海に出ていて,後に東流して墓ノ木古黒部(墓 ノ木は黒部川中流・古 黒部は入善の小川河口付近)に流れ,再び西に転じて現在の河道に移ったと謂われている。 これら氾濫による分岐・分流が綴り合わされ,少しづつ一つ一つの用水系統が作り出され,黒部川の治水工事も相俟ってその骨格が形成されたのが,徳川時代初 期から中期の時代と謂われている。 その後,明治初期に入り,用水区域も次第に明確になり,維持管理体制も整備されたのであるが,依然として黒部川の氾濫による各用水の取入口の流失で,修復 が絶え間なく繰り返され,これに多量の資材と夫役を投じ辛うじて取水口の維持管理がなされていた。 1917(T6)年,工場の自家用水力発電所構想より電力会社が設立され,これと黒部川筋農業用水の西側6用水口,東側7用水口を,それぞれ1箇所で取り 入れする用水事業と併せた事業が計画され,漸く1929(S4)年に着工を見るに至り,1932年にその愛本堰堤が築造された(竣工した,の意か。 1932年に1年だけで本体が建設された訳でもあるまい)。 その堰堤は,現在の位置よりも150m下流に設置されていたが,1931年・1934年(洪水量 3,000m3/s)・1944年・1952年(4,700m3/s)・1957年(3,600m3/s)と,工事中を含めて5回の洪水に遭遇し, その都度補強と改築を繰り返してきた。 |