電 力総研 水 力あれこれ
と はずがたりな掲示板(利 水スレ電 力スレ)
農業用水(梓川高瀬川奈良井川)
20.10.2運開

梓川用水と発電所

管理区分図用水系統図梓川3ダムを中心とした発電所

管理区分図
上段が稲核ダム,下段が梓川頭首工が起点となっている。
出典:長野県梓川土地改良区


用水系統図




稲核(いねこき)ダム※
東京電力
http://www.suiryoku.com/gallery/nagano/inekoki/inekoki.html

着工/完成:1965/1969
水殿発電所の下部調整池
放水:梓川[稲核発電所]・竜島発電所・梓川右岸用水(57.399m3/s)
目的:発電
堤高/堤頂長:60m/192.8m
流域面積/湛水面積     444.9km2 ( 全て直接流域 ) /51ha
総貯水容量/有効貯水容量     1070万m3/610万m3
着手/竣工     1965/1968

(東電・農林共用隧道)

上段取水工[場 所
取水量:3.399m3/s
稲核ダムから竜島発電所への導水路から梓川右岸上段用水へ


竜島(りゅうしま)発電所[水力
東電RP(株)
運開:1969.1
ダム水路式・調整池式
認可最大出力:32000kW 常時出力: 9000kW
最大使用水量:54.00立方メートル毎秒
有効落差:71.02m
流域面積:444.9平方キロメートル
取水:稲核ダム787.0m
放水:梓川712.0m


黒川堰・右岸上段幹線分岐[場 所

黒川堰
黒川堰土地改良区

右岸上段幹線
中信平右岸土地改良区

出典:長野県梓川土地改良区


梓川頭首工[場 所][水 土里
取水量:52.180m3/s
取水:梓川
放水:梓川導水幹線(昭和電工赤松発電所)(→梓川左岸幹線水路(中部電力梓発電所))(34.500m3/s)・導水幹線(17.680m3/s)・
関係土地改良区
中信平土地改良区連合、長野県梓川土地改良区、東筑摩郡波田堰土地改良区、東筑摩郡黒川堰土地改良区、長野県中信平右岸土地改良区、長野県中信平左岸土地 改良区

昭和電工(株) 赤松発電所[水力
所在地:長野県東筑摩郡波田町上海渡(新島々駅脇)
運開:1951.1
水路式・流込み式
認可最大出力:5,500kW    常時出力:1,650kW
最大使用水量:34.50m3/s
有効落差:19.95m
流域面積:556.0平方キロメートル
取水:(梓川[梓川頭取工]→)梓川幹線710.50m
放水:梓川導水路687.72m

R158へ向かう途中,ナビに細かい近道を誘導されたがその途中で見かけた昭和電工の送電鉄塔。赤松線No.67 とある。


波田堰(せぎ)[水 土里][wiki
取水:梓川頭首工・導水幹線
>波田堰の水は、波田地区約200haの水田を潤している。
>堰(せき)から取り入れた用水を流すために人工的に造った用水路のことも堰とかき,この場合は「せぎ」と読む。波田堰もその1つである。
>同じ波田地区内には、他に和田堰・黒川堰の2つがある。

和田堰

黒川堰[wiki
稲核ダム→上段取水工(Q=3.399m3/s)→黒川堰
黒川堰(くろかわせぎ)は、長野県松本市波田を通り、東筑摩郡山形村方面まで流れる、灌漑用の人工河川である。開削から1971年までは、鉢盛山から北北 東の谷に流れる黒川から取水していた。現在は梓川(稲核ダム)から取水している。波田上波田までは隧道を、波田上波田では集落の上を、波田中波田では盛泉 寺境内を横切って流れる。



温堰(ぬるせぎ)[水 土里
梓川頭首工→梓川幹線・梓川導水路→梓川左岸幹線→温堰
>安曇野の中央部を南から北へと流れる温堰は、梓川を源とする用水路の中で最も多くの水田(約1,000ha)を潤し、その延長は11㎞に及びま す。温堰の開削年は定かではありませんが、この地域にある幾つもの堰の開削史は古く、ほとんどが荘園制(平安時代〜室町時代)の成立とともに開削されたと 言われており、その事業は、一度に成されたものではなく、水田開発と集落成立を意図しながら、堰筋を順次延長する形で行われたと考えられています。
>温堰と書いて「ぬるせぎ」と読む語源には諸説ありますが、山から流れ出る沢水や湧水に比べて、梓川から取水して運ぶことにより、はるかに水温の高 い水を得ることができ、非常な喜びをもって「ぬるまっこい水の堰」すなわち温堰と呼称されるようになったと言われており、このことは、江戸時代頃まで「ぬ る水堰」と呼称されていることからも推測することができます。

小田多井堰(おだたいせぎ)[水土里
温堰→小田多井堰
>小田多井地区…の水田を潤す小田多井堰の歴史は、江戸時代初期の新田開発にさかのぼります。当時は梓川から取水している温堰の末流の御手洗堰を延 長し用水としていましたが、「古田優先」の水利慣行では、新しく開田された流末の小田多井村に水が回ってくるのは決まって夜中でした。徹夜して自分の田ん ぼに水を入れなければならないなど、村人は大変な苦労をして耕作していました。
>こうしたことから村は、堰の取り入れ口を4㎞上流に移し、温堰の本流から直接取水する新しい堰(小田多井堰)の開削願を松本藩に提出し、上流の村 々の説得や藩への訴えを粘り強く行い、5年後の1678年に年貢増徴を条件にようやく開削の許可を得ることができました。
>小田多井堰の開削工事は1日当たり140人を動員し、わずか3日間で完成させました。これにより安定した用水を利用できるようになり、村の新田面 積や石高が増加しました。

梓川右岸幹線
https://www.pref.nagano.lg.jp/nochi/kurashi/ondanka/shizen/hatsuden/ichiran/documents/ugan.pdf




梓川頭首工設置前には赤松頭首工(1931[S6]完成)から取水してた様だ。[跡 地(ここか?)]
その後,石礫の堆積が酷く除去に多額の経費が掛かるようになり1943年には早くも計画が着手され,戦後の混乱を経て,1950年に現在迄使用されている 梓川頭首工が完成した様だ。
下流はほぼ現在と等しいように見える。
出典:関 東農政局



梓川下流の農業用水
出典:安 曇野市[新堰・横堰・油川はこれ(安曇野市)か ら判明・川の名前地図も知らな いようで苦労した]


新田堰(しんでんせぎ)[水土里][→穂高川][場 所(勘左右衛門堰[→奈良井川]のサイフォン もこの辺)]
>安曇野は、梓川や烏川等の河川によってできた広大な複合扇状地です。扇状地では水が地下浸透しやすく、特に扇央部は昔から農業用水がなくて苦労し た地域です。このため、梓川からの水に加え、流量が豊富で安定している奈良井川からも取水し、等高線に沿った緩い勾配で水の不足する地域へと用水を導く 「横堰」が、江戸時代に4つ開削されました。新田堰のほかに、矢原堰、勘左衛門堰、そして開削技術の集大成となった拾ケ堰が完成し、安曇野の干ばつ地帯を 県内有数の米どころに変えることができました。
>現在、勘左衛門堰と一緒に梓川の合口取水工から取水しています[→勘左衛門の補助取水口か?]が、梓川の洪水時に多量の土 砂が堆積し、取水に支障を来たすため、県営事業により土砂吐ゲートを設置する工事を行っています。(平成30年3月完成予定)

(拾ヶ堰[→奈良井川]サイフォン[場 所])

熊倉堰[こ れ?

~この辺から犀川~
(奈良井川合流)

矢原堰(やばらせぎ)[こ れ?][水 土里
>安曇野をほぼ等高線に沿って緩やかに流れる水路を、この地方では横堰と呼んでいます。横堰は自然の摂理に逆らってあたかも山に向かって流れている ように見えますが、矢原堰はこの横堰の先駆けとなった水路です。
>犀川に水口を求め、穂高神社先の欠ノ川まで、総延長8300m、450haの水田を潤しています。
>今からおよそ360年前、矢原村(現在の安曇野市穂高矢原)の庄屋臼井弥三郎は、度重なる失敗にもめげず松本藩に許可願いを出し続け、不屈の精神 をもってついに開削・通水を成し遂げました。
>この矢原堰の成功は、後の新田堰[→梓川]、勘左衛門堰[→奈良井川]、拾ヶ堰[→奈良井川]といった横堰に引き継がれ…たのです。

重信堰(左)[こ れ?


光明科堰(右)[こ れ

中部電力(株)  犀川発電所[水力] [→犀川]← 犀川を代表する様な名前を背負ってる癖に僅か1.3MWの弱小発電所である。
運開:1923.3
水路式・流込式
出力:1,700kW 常時:1,700kW[100%]←でたっ,100%
水量:10.77m3/s
落差:19.06m
流域面積:1330.0km2
取水:犀川(光明科堰?)537.52m
放水:犀川515.40m


以下,犀川(水発)へ続く