電 力総研 水 力あれこれ(北 海道)
と はずがたりな掲示板(利 水スレ電 力スレ)
22.5.20運開
オホーツク沿岸の水力開発

徳志別川 幌内川 斜里川


~徳志別川~

[第四次調査地点]徳志別川(水量・落差・地点不明)
最大出力:3,200kW 常時出力:740kW 年間発電量:18,246MWh



[新設私案]徳志別第一発電所
河川:徳志別川
出力:3,000kW[+3.0MW]
水量:3.4m3/s
落差:106m
流域:64.8km2
導水:5.9km
取水:徳志別川 EL247m (EL255m)
放水:徳志別川[こ こら] EL141m



[新設私案]徳志別第二発電所
河川:徳志別川・オフンタルマナイ川・風烈布川
出力:6,400kW[+6.4MW]
水量:9.6m3/s=3.4m3/s(第一PS流分)+6.2m3/s
落差:80m
流域:189.1km2=64.8km2(第一PS流域)+124.3km2
導水:12.1km=10.5km+1.6km(オフンタルマナイ川支線)
取水:徳志別川・オフンタルマナイ川・風烈布川 EL140m
放水:徳志別川 EL56m



~幌内川~

こ んな所にダムが!と思い調べてみた所,廃止された発電所のダムであった。
wiki からは色々なドラマがあった事が読み取れ興味深いが規模に関しては小さいとあるが960kWはそれ程小さくなく廃止は勿体なかった。。

幌内ダム (ほろない) [便覧][wiki
河川:幌内川水系幌内川
目的:P
型式:重力式コンクリート
堤高:21.1m
堤頂長:161.9m
堤体積:15千m3
流域面積:269.9K㎡
湛水面積:90ha
総貯水容量:7220千m3
有効貯水容量:880千m3
ダム事業者:雄武枝幸町電力農協
竣工:1953年


幌内川発電所[発電水力調査書] [wiki

認可最大出力:960kW 常時出力:330kW
年間発電量:6,583MW 設備稼働率は78.3%
取水:幌内川[幌内ダム]
放水:幌内川?


幌内ダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


幌内ダム(ほろないダム)は、北海道紋別郡雄武(おうむ)町、二級河川・幌内川本流に建設されたダムである。

北海道電力がかつて管理していた発電専用ダムで、高さ21.1メートルの重力式コンクリートダム。当初は1939年(昭和14年)に幌内送電が高さ 13.0メートルの小堰堤として建設していた。しかし1941年(昭和16年)にダムが決壊しその後放棄、戦後雄武枝幸町電力農業協同組合が1953年 (昭和28年)に現在の高さに再建した。その後北海道電力に移管されたが維持管理費高騰が原因により1973年(昭和48年)に廃止された。現在は北海道 が管理する砂防堰堤であり河川法上のダムとは規定されていない。ダムによって形成された人造湖には、特に名称が付けられていない。

沿革

紋別郡に電力を供給させることを目的に1938年 (昭和13年)幌内送電株式会社が設立された。

幌内送電は地元を流れる幌内川に水力発電所の建設を計画、ここに高さ13.0メートル・堤頂長161.0メートルの重力式コンクリートダムを建設して貯水 を行い、ここより導水した水を幌内川発電所に送って最大200キ ロワットを発電する計画を立てた。この幌内川発電所の取水口として建設されたのが幌内ダムである。

幌内ダム決壊事故

ダムは翌1939年1月より着工され、翌1940年 (昭和15年)12月にわずか1年11ヶ月という工期で本体が完成する。しかし完成直前、発電所の運用開始前に行われる検査の直前に発電所施設が火災事故を起こして運用は延期。復 旧工事を実施し翌1941年5月に施設は修復さ れ、今度こそ運用が開始される手はずとなっていた。

ところが、再度の発電所施設事前点検が行われる直前の1941年 6月6日、幌内川流域を集中豪雨が襲った。ダムは幌内川の下流に建設されており流域面積の大半はダムより上流であった。このため上流の広範 囲に降った豪雨は一挙にダム湖へ押し寄せたが、同時におびただしい流木もダム湖に流入した。それら流木はダム中央部にあるゲートに大量に漂着したためダム は放流機能を喪失、行き場を失った洪水はダム本体より越流を開始、遂 に6月6日午前9時30分頃ダム本体中央部が水圧に耐え切れず崩壊を開始し、決壊。ダム湖の水は濁流となって下流にある現在の雄武町幌内集 落に押し寄せた。幌内集落では32戸が濁流によって家屋流失の被害を受け、死者60名・罹災者220名[3] という大惨事をひき起こすに至る。…原因としては施工時に劣悪なコンクリートを使用したことにより重力式コンクリートダムとしての利点が機能せず、莫大な 水圧に耐えられなかった施工ミスに加え、大量の流木がダム放流機能を喪失させた相乗作用によると考えられているが、詳細な原因究明は戦時中ということも あって行われず、実態は不明である。

ダム決壊後、破壊されたダムと発電所はそのまま放棄された。…

再建

太平洋戦争の終戦後もダムと発電所は放棄されたままであり、雄武町や隣接する枝幸(えさし)町は相変わらず電気が利用できない状況であった。このため決壊 した幌内ダムを再建して電力を供給させようという機運が高まっていった。…1951年(昭和26年)に電気事業再編成令の発布に伴い分割・民営化され、北 海道には道内一円の発電・送電・配電を受け持つ北海道電力が誕生していた。だが北海道電力は同時に設立された9電力会社の中で経営基盤が最も弱く、直ちに 北海道内の電力基盤整備を行うことは不可能であった。

北海道電力の電力事業が受けられない状況の中、雄武町と枝幸町は幌内送電に代わる電力供給事業を自前で行うべく、雄武枝幸町電力農業協同組合後に北海道電力が枝幸町に送電を開始すると枝幸町が組合から離脱、雄武電力農業協同組合に名称を変更する。を設立。ダム決壊より10年経った1951年8月、幌内ダムと幌内川発電所の再建に着手した。 まず幌内ダムについては決壊前に比べダムの高さを8.1メートル 高くした21.1メートルの規模に拡張、これにより総貯水容量を722万立方メートルに増大させた。これにより幌内川発電所の発電能力も増 強させることが可能になり、当初200キロワットであった認可(最大)出力も5倍弱に当たる960キロワットにまで増強が可能になった。

ダムと発電所は2年4ヶ月の歳月を掛けて建設が再開され、旧ダムの堤体を取り込む形でコンクリートが打ち増しされて1953年(昭和28年)12月に完成 した。幌内ダムと幌内川発電所が完成したことにより雄武町および枝幸町の1,600戸に電力が供給され、住民はようやく電気の恩恵に与れることが出来たの である。

廃止

ダムと発電所は完成後雄武枝幸町電力農業協同組合が管理を行っていた。その後1969年(昭和44年)になると管理が北海道電力に移管され、以後は北海道 電力が所有することとなった。しかしこの頃よりダムおよび発電所の維持管理費と発電に伴う売り上げとの費用対効果が大きな問題となっていた。…当時は水力 発電から火力発電へ電力開発の主軸が移行する「火主水従」が主流になっており、水力発電開発は下火になっていた。さらに送電技術もダム建設当時から比べれ ば格段に進歩しており、北海道電力の電力供給能力も日高電源一貫開発計画や多目的ダムにおける大規模水力発電事業の実施、高出力な火力発電所の建設などに より安定していた。…

1972年(昭和47年)、幌内川発電所の設備が故障した。これを契機に北海道電力は幌内川発電所の廃止を正式に決定、取水口である幌内ダムも発電所の廃 止によって利用目的が喪失したことにより翌1973年(昭和48年)3月に廃止された。オイルショックによって国産再生可能エネルギーである中小水力発電 が見直される直前の出来事である。通常、ダムが廃止される場合は河川法の規定に基づき本体を始めとする施設一切を撤去し、ダム建設前の状態に原状復帰する ことが定められているが、幌内ダムについては砂防堰堤として機能を維持させることになった。これに伴いダムに設置されていた放流用のゲート4門を始め取水 設備などは全て撤去され、自然越流方式のダムとして残存され現在に至る。廃止されたダムがほぼそのままの形で残っている極めて珍しい例であるが、砂防ダム に変更されたことで河川法におけるダムの規定からは外れ[ている。]…

廃止後は北海道が管理する砂防ダムとして機能しているが、1997年(平成9年)の河川法改訂で「河川環境の保護」が重要な法目的の一つに加えられた。幌 内川においても川を遡上するサケ・マスの河川生態系維持を図るため、2007年(平成19年)より幌内ダムに魚道を設置する工事が進められている。


産業研究(高崎経済大学地域科学研究所紀要)第54巻第2号

戦後の縁辺地域における住民と
協同組合による電気供給とその顛末⑴
-北海道雄武町と枝幸町を事例として-
西 野 寿 章*
The

 筆者[西野寿章・高崎経済大学教授]は,市場原理で発展した第二次世界大戦以前における日本の電気事業の展開過程において,電灯会社の供給区域から除外 されたり,組み入れられても,経営効率によって家屋の密集集落への点灯が優先され,家屋の散在する地域への点灯がスムーズに行われなかった山村おいて,内 発的に地域電化を進め
た町村営電気事業の地域的成立条件を明らかにしてきた。26 の町村営電気が集まっていた岐阜県の場合,経済的価値の高い町村有林を有していた自治体から内発的に地域電化がなされ,住民に寄付を求めた岐阜県と長野県
の事例では,基本財産の有無が住民負担額の差と地主層への依存度の違いとなって現れ,また長野県の事例では,村から住民への指定寄付金を部落有林の立木売 却によって集落ぐるみで生み出して事業費を捻出した例など,
地域一斉点灯に向けて,官民が一丸となって
動いていた。このようにして地域電化が達成
されると,電気事業の収益が自治体の自主財
源となって,地域振興に寄与した側面も認め
られた。しかし,1938 年の国家総動員法制
定に関連して,電力国家管理法が制定され,
経済統制の一環として,電気事業も統制の対
象となり,1943 年には,800 余りあった電灯
会社は9 つの地域ブロック毎に設置された配
電会社に集約され,内発的に創設され,経営
された町村営電気事業は消滅した。


岩手県では,山間部
を中心に未点灯集落が多く点在し,1954 年
における県全体の未点灯率は6.5%となって
いた。1949 年には岩手県独自の小水力発電
に対する県単補助政策が始まったが,1950
年以降の政府援助によって1968 年にはほぼ
全県電化を達成した。政府援助の中でも,ア
メリカの農村電化方式をモデルとして1952
年に制定された農山漁村電気導入促進法は,
農林漁業金融公庫が初期投資費用を農林漁業
団体に融資する仕組みによって,未点灯地域の解消に大きく貢献したが,地域電化は1951 年に発足した東北電力の負担を抑制し,
受益者負担,地域負担によって推進された。
その地域電化は,地産地消的に小水力発電所,
風力発電所を建設するケースもあったが,ほ
とんどは最寄りの東北電力の送電線に接続す
る受電方式によった。地域の電気事業者が地
域に供給する地産地消型の地域電化は,1951
年の電力再編成後は認められず,仮に発電し
ても,電力会社に売電しなければならなかっ
た。小水力発電が多く建設された中国山地に
おいても,事業者である農業協同組合は,中
国電力に売電していた。
 北海道における地域電化も,

北海道における地域電化も,ほぼ岩手県と
同様に進められたが,…1961 年に設立
された雄武枝幸町電気組合は,1951 年設立
の雄武町電力利用農業協同組合と1952 年に
設立された枝幸町電力利用農業協同組合を統
合した雄武枝幸町電力利用農業協同組合を
前身とし,実質的には町営電気事業として,
1968 年の一般供給の北海道電力への移管が
完了するまで地域住民に電気を供給し続けて
いた点で特異だった。戦前の山村地域に多く
存在した町村営電気事業と酷似し,9 電力以
外は配電することができなくなった戦後にお
いて,戦前の町営電気事業の形態が日本の縁
辺地域で密かに復活していた。それは,経営
効率だけを優先した戦前の電灯会社の経営姿
勢が反映された歪な配電構造を,地域が補完
して,矯正せねばならなかったからであった。
 本来なら,当時発足していた北海道電力が
地域電化を進めるべきであったが,発足して
間もない北海道電力にそうした体力は無く,
むしろ9 電力は政策的に保護され,結果とし
て地域住民,行政,農業協同組合が一体となっ
て地域電化に対応せねばならなかった。しか
し,その経営は多難を極め,債務償還に苦し
む自治体と受益者負担が住民を苦しめた。…

幌内川発電所は,1955 年1 月末に完成し,
同年2 月18 日から電気供給が開始された。
発電された電気は,正組合員,準組合宅へ供
給されたが,余剰電力は北海道電力に売電さ
れた。電農が水力発電所を建設し,電気供給
を行うことになったとはいえ,雄武町と枝幸
町のバックアップなしに,この大事業を成し
遂げることは不可能であった。行政のバック
アップは,前述の起債と補助金のほか,1955
年に枝幸町にある国有林の払い下げを受け,
雄武町と枝幸町の共有林を設定して,農林漁業金融公庫からの借入金の担保としたほか,電農への補助金3,230 万円の内,1,500 万円は両町が共有林を売却して補助している。
 総額5 億1,870 万円余りの約10%は自己資金として調達され,その内訳は組合員出資金27.3%,町出資金28.7%,負担金23.8%,町繰替金19.7%などとなっ ていた。

,1955 年以
降の電気事業経営は多難を極めていた。
 第4 表は,1955 年度から1960 年度までの
共同運営時の収支実績をまとめたものであ
る。それによると,実質的な収入である電気
料金と北海道電力への売電収入の合計が支出
額に届いておらず,借入金で収支を合わせた
苦しい経営となっている。実質収入の支出に
占める割合は,1955 年度39.1%,1956 年度
45.3%,1957 年度85.3%,1958 年度79.1%,
1959 年度66.4%,1960 年度67.6%に留まり,
赤字経営が続いていた。

 1955 年1 月から地域に送電を開始して約
10 年が経過し,経営問題が表面化し始めた
頃,設備の老朽化が進み,その改良工事にも
取りかかる必要性が生じていた。とりわけ,
素材柱を用いた電柱の老朽化が著しく,また,
送電線の一部に鉄線が用いられていたことか
ら送電ロスが多く,銅線に取り替える必要も
あった。電柱は,防腐材を注入した電柱であ
れば通常20 年は使用できるが,雄武町と枝
幸町では電気の供給を優先させ,単価の安い
防腐措置をとっていない素材柱を電柱に用い
たものと考えられる。そのうえに潮風と風雪
など,厳しい自然環境にある地域ゆえに,電
柱の老朽化が10 年で進み始めたものと考え
られる。鉄線の送電線も,480 ㎞の送電線に
用いる銅線の単価が高かったり,入手が容易
でなかった可能性もある。

雄武枝幸町電気組合では,1965
年11 月を皮切りとして,北海道電力への早
期移管を北海道に陳情し始めた。



当時の設備稼働率見ても高効率じゃあないか。復活必須であろう。ほくでんエコエナジー辺りどうかね?



~興部川~



~藻興部川~


~渚滑川~


~湧別川~




~常呂川~




~網走川~





~斜里川~


~秋の川~

ほくでんEE(株) 秋の川発電所[場 所][DB] [水 力
運開:1939.8 所有社変更:2003.4[北海水力発電(現・ほくでんEE)
水路式・流込式
    認可最大出力:383kW      常時出力:350kW
(1960年当時:常時出力:257kW・年間発電力量:2,650MWh[設備稼働率:79.0%])
    最大使用水量:1,25m3/s (50%)
    有効落差:40.0m
    水車:横軸フランシス水車 出力414kW×1台
    流域面積:25.0km2
    取水:秋の川・富士の川 94.20m
    放水:秋の川 49.78m



緑ダム[便覧
河川     斜里川水系アタクチャ川
目的/型式     A/ロックフィル
堤高/堤頂長/堤体積     73m/345m/1998千m3
流域面積/湛水面積     20.3km2 ( 全て直接流域 ) /53ha
総貯水容量/有効貯水容量     7100千m3/6400千m3
ダム事業者     北海道開発局農水部
本体施工者     鹿島建設・勝村建設・東急建設
着手/竣工     1974/2003