苗場山麓農地開発事業 [水土の礎] 津南町はその南西から北東に信濃川が流れ、右岸側から志久見川、中津川、清津川が注ぎこむ。 40数万年前からこの河川の働きと台地の隆起により日本最大規模の9段の河岸段丘が形成され、この台地上で苗場山麓農地開発事業が展開された。 信濃川右岸には農用地の開発可能適地が16,000ha程あるものの、かんがい用水を台地へ導く難しさと日本有数の豪雪地帯で特に冬場の交通確保が難しく土地利用開発が遅れていた。 新潟県農地部は昭和20年代後半からこの地域の開発調査を進め30年代後半に農民の開田熱意が高まったので41年9月に「苗場山麓全域の開発構想」をとり纏めた。 計画では信濃川支流の清津川に貯水量53,000千m3のダムを建設し、かんがい用水を確保。開田1,840ha、開畑11,460ha(内潅水畑900ha)既水田2,000haの整備を行い水田を基軸に畜産との複合一大産地を築くという壮大な企てだった。 この実現に「苗場山麓開拓パイロット事業推進協議会」が設置され国に事業実施を働きかけた。昭和42年には現況把握を中心とした北陸農政局の直轄調査が行われ43年に農地開発事業計画樹立のための新規調査地区に採択された。 しかし同年、開田抑制が始まり翌年(1969年)から減反政策が本格的に実施された。農政の大転換に直面した当地区は開田から開畑に変更し事業推進への意思統一を図った。 また水源とした清津川ダム実施の目途が立たないことから中津川右岸台地を分離、昭和48年に単独水源を求め、中津川左岸と志久見川右岸台地971ha(変更後756ha)で先行着手したのが国営総合農地開発事業「苗場山麓第一地区」である。 そして第一地区を除いた区域を「苗場山麓第二地区」としたが清津川ダム着工と十日町市の意思統一の遅れ等から昭和48年に十日町台地を第三地区に分離。中津川右岸と清津川支流釜川左岸間の段丘1,710haを第二地区として進め昭和50年に着工した。 |
出典:https://www.maff.go.jp/hokuriku/news/print/attach/pdf
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潟県]| 〜釜川〜 大場頭首工[新 潟県][場 所] 取水量1.67m3/秒・取水位:740m・流域:約20km2 >頭首工は河川を堰上げて取水するのが一般的ですが、この頭首工のある釜川は急流で堰上げできないことから、河床に埋設した導水管路へスクリーンで 水を取り 込むチロル式という取水方法が採用さてれいます。 この頭首工から管径110センチのパイプで5キロ下流の大谷内ダムまで用水が運ばれます。 約20km2から最大1.67m3/s集水って事で,釜川で水発はなかなか難しそう。 大谷内(おおやち)ダム[便覧][jichiro.mydns] 河川 信濃川水系釜川 目的/型式 A/アース 堤高/堤頂長/堤体積 23.2m/1780m/494千m3 流域面積/湛水面積 17.4km2 ( 直接:0.4km2 間接:17km2 ) /19ha 総貯水容量/有効貯水容量 1206千m3/1200千m3 満水位:655m程度? ダム事業者 北陸農政局 着手/竣工 1975/1989 常時満水位: EL.653.50m 貯水池全てが堤体で囲まれおり、堤長1,780メートルは、日本一。[新 潟県] 大谷内ダムは、まず、昭和24年からの国営津南原開拓事業で、大谷内ため池として新設され、次に国営苗場山麓第二地区で、現在のダムの形となった。 ため池として整備された当時の貯水量は、現在の3から4割程度でした。 清津川ダムを諦めた代わりにあちこち[→桔梗ヶ原頭首工・横平川取水口]で取水している様で,まあこれで機能しているのも事実か。 |