上信越高原
清水越え[→例えば山行が]に象徴されるような険しく越後山脈が三国山脈辺りを境に終わるとその先の山は上信越高原と呼ばれる一角となる。
山脈から高原へ,土地勘のない私には雄大な中津川の流れや峻険な険しさは余り変わらないように思えるけど,人間が見逃す訳も無く分水嶺を越えた水の利用,分水が現れ出す。
これは越後山脈が豪雪の新潟県だったのに対してこの辺は小雨の北信地方,降水量はグッと減り,一方で上州側は南斜面なので小雨の関東地方とはいえ水は豊富。
技術的可能性と水需要の必要性が組み合わさって日本人が高度な産業社会を築き始めた江戸時代から徐々に開発が進むこととなった様だ。
新潟県のイメージの中津川は遡る内に秋山郷の最上流,切明で雑魚川と魚野川に岐れるが,魚野川の最上流部は群馬県に張り出した部分があり,戦後,東電が中津川第一発電所の為にダム湖を建設した。
一方でより長野県に
出典:ユネスコ志賀高原
横倉堰・須賀川堰
〜夜間瀬川〜
上条堰[文頂][FB]
信州中野の次は湯田中しか認識してなかったけど,湯田中の手間の上条は上条堰,上条の手間の夜間瀬は夜間瀬川と利水マニアになってみるとそっちの方が重要やんけという駅名の並びであったw
>江戸時代中期から末期、上条村の稲作はわずかでしたが水さえあれば水田になる畑地や林が多くあり、水を引いて新田開発することは村人たちの願いでした。
>そこで樋口徳平ほか7名が立ち上がり、雑魚川の支流から堰を開削する計画を立て、新井村と沓野村、湯田中村とともに工事を開始しましたが、工事はなかなか進まず七人衆は自らの財産を投入して工事を進めましたが続かず、完成を見ずに村に移譲してしまいました。
>新井村も脱落する中、上条村はあきらめず工事を続け、明治7年には通水に至っています。
>その後、新井村と沓野から権利を買い取り、湯田中村は観光へとシフトしていき、現在は上条区のみが管理を続けています。
経路は以下の様な感じ。中津川上流雑魚川流域から樽川流域を経て最終的には夜間瀬川へ至る。この夜間瀬にあるのが平穏でその平穏にあるのが上条である。
今,寒沢堰を補水に使う
湯田中の上の方迄で約10km2ある。ここから一気に湯田中近くの上条へ向けて落とす。だから上条堰なのか。源流はアライタ沢。荒板沢みたい。

寒沢堰[樵路巡遊][wiki]
水路延長:3,273 m
石積壁水路:巾高さ1 m程度から30 cm程度
コンクリート製取水口(沈砂池兼ねる):17箇所
国境トンネル円形水路:324 m径700 mm、FRP製
『八カ郷水利誌』では最大0.22 m3/s、常時0.06 m2/s
明治期の『水量調査書』では、"平常最多ノ水量ヲ調スルニ、深さ八寸、巾ニ尺五寸アリ、此水一秒間ニ一尺ヲ流ル"→水位240 mm、水路巾750 mm、流速毎秒300 mm = 0.11 m3/s
ガラン沢下流には、熊倉水力発電所(群馬県企業局)が建設された。[→吾妻川]
運転開始:1994年6月
最大出力:2900 kW
使用水量2.56 m3/s
一般社団法人電力土木技術協会
開発当初の経緯
(一部未確認)
1881年:長野県下高井郡穂波村鈴木沢治郎氏、群馬県吾妻郡入山村から、ガラン沢の水利権を誼渡さる。以下準備に奔走
1889年:養田・湯本により村内事業に着手する
1892年:草津隧道貫通する(第一期工事)
1895年:全水路完成する
1896年:全水路通水する
1912年:漏水が多く使用不能となる
1920年:長野電灯(株)に寒沢村の水利権および工作物譲渡する
1926年12月:平穏第一第二発電所運開
1995年:国境トンネルの隧道改修
私も林野庁の地図で確認して見たがあった!
出典:林野庁(吾妻9-6)

流域は約1.7km2。上条堰と比べるとなかなか小さくはある。

寒沢は角間川の西側を流れる支流伊沢川脇の山の中腹にある聚落[この辺]でこの聚落が堰を作ったのでその名があるけど,既に利用はしておらず角間川から寒沢への導水路を辿ることも難しそうな[wiki]
今,水を使っているのは中野・八ヵ郷で「八ヶ郷用水は、中野扇状地に発達した郷村(更科、小田中、西条、吉田、一本木、若宮、竹原、中野)による水利共同体のことであり、一帯の水田(219ha)、畑(290ha)の合計509haを潤しています。[農水省]」とのことで付属のpdfより取水口は角間川改め夜間瀬川の松崎頭首工[場所]の様である。
太田堰[wiki]
沢
次郎の引水事業開始前に完成し影響を与えた寒沢村南隣の上高井郡高山村「太田堰」(明治13年通水[1][信頼性要検証])も万座峠付近から群馬県側から
の中央分水嶺を超えた引水であるが、水量が少なく、増水計画の隧道工事も資金不足でとん挫断念され、遺構も自然に還ってしまった。
