~中山
川~ 愛媛県公営企業管理局 道前道後第一発電所[水力] 愛媛県上浮穴郡久万高原町笠方 運開:1964.1 ダム式・貯水池式 認可最大出力:3,500kW 常時出力: 0kW 最大使用水量:6.88立方メートル毎秒(現地案内版) 最大使用水量:6.90立方メートル毎秒(水力発電所データベース) 有効落差:64.30m 水車: 出力3800kW×1台 導水路:総延長9102.4m 流域面積:76.1平方キロメートル 取水:面 河川(堰堤)→鉄 砲石川→坂 瀬川→妙 谷川(堰堤)→割石川[面河ダム](680.00m) 放水:道前道後第二発電所(614.5m) http://www.suiryoku.com/gallery/ehime/dzendgo2/dzendgo2.html 愛媛県公営企業管理局 道前道後第二発電所 運開:1964.1 水路式・貯水池式 認可最大出力:11,000kW 常時出力:1,500kW 最大使用水量:6.88立方メートル毎秒(現地案内版) 最大使用水量:6.90立方メートル毎秒(水力発電所データベース) 有効落差:195.70m 水車:出力11700kW×1台 導水路:総延長7801.1m 流域面積:76.1km2 取水:道前道後第一発電所614.5m 放水:中山川→道前道後第三発電所406.6m 愛媛県公営企業管理局 道前道後第三発電所[水力] 運開:1964.1 水路式・貯水池式 認可最大出力:10,600kW 常時出力: 1,400kW 最大使用水量:6.90m3/s 有効落差:188.60m 水車: 出力11300kW×1台 流域面積:76.1km2 取水:道前道後第二発電所→中山川406.6m 放水:中山川→灌漑、工業用水208.0m 道前道後用水 中山川逆調整池・千原取水塔[場 所208.1m] 取水量:3.45m3/s 取水:中山川[道前道後第三発電所] 送水:南北分水工(3.45m3/s)[道後北部幹線水路(1.63m3/s)・道後南部幹線水路2.5m3/s] 出典:土改協? ~道前用水~ 中山川取水堰[此 処?(地理院) EL82m・G] 取水量:5.37m3/s 送水先:南北分水工 中山川逆調整池(EL202m)or面河第三発電所(EL208m)を放水された5.37m3/sを中山川取水堰(EL82m)で取水する。有効落差 120m程。鞍瀬川はサイフォンで渡る必要がありそう。 また道前道後の第一・第二・第三の全ての発電所で流域面積が76,1km2と共通していて中山川からは取水しないと云う事の様に思われるが,中山川逆調整 池地点で見て30km2近い流域がある。小雨の瀬戸内とは云へ多少の補充は出来そうである。 [私案]中山川発電所 出力:5,400kW[+5.4MW] 水量:5.5m3/s 落差:120m 取水:中山川[道前道後第三発電所] 放水:中山川[中山川取水堰] ~志河川~ 志河川(しこがわ)ダム[便覧][まんまる日記][dam88] 河川 中山川水系志河川 目的/堤高/堤頂長 A(道後用水0.33m3/s)P(維持流量発電?)/48.2m/117m 流域面積/湛水面積 17.2km2 ( 全て直接流域 ) /8ha 総貯水容量/有効貯水容量 130.0万m3/95.5万m3 ダム事業者 中国四国農政局 着手/竣工 1987/2010 発電所名:志河川ダム発電所 (しこがわだむ)[aika] 事業者名:道前平野土地改良区 出力(kW):49.9 開始年月:2016 (H28).2 南北分水工[場所:地 理院・G] 取水:中山川取水堰(5.37m3/s)・志河川ダム(0.33m3/s) 送水:道前右岸幹線水路・道前左岸幹線水路 |
~道後用水~ 南北分水工[場所・][cassopedia] [G・地 理院(191m)] 取水:中山川[中山川逆調整池・千原取水塔] 送水:道後北部 幹線水路(1.63m3/s)・道後南部幹線水路2.5m3/s 中山川取水堰(道前の両岸分水工側)と違って南北分水工と中山川との落差は10m位しか無さそうで水量も少なめで発電は一寸無理かも。。 ~道後南部幹線水路~ 佐古ダム[便覧] 河川 重信川水系佐川川 目的/型式 A/重力式コンクリート 堤高/堤頂長/堤体積 31m/210m/63千m3 流域面積/湛水面積 4.1km2 ( 全て直接流域 ) /11ha 総貯水容量/有効貯水容量 1110千m3/1020千m3 ダム事業者 中国四国農政局 着手/竣工 1989/2001 通谷(とおりたに)池[場 所:砥用町・79.7m][wiki] 潅漑面積:250ha(道後平 野) 給水:道後南部幹線 大谷池[場 所・伊予市・101m][wiki] 潅漑面積:838ha(伊予市) 給水:道後南部幹線 1922年 (大正11年)の大旱魃、翌年の水害、1930年(昭和5年)の旱魃では稲は枯死するなど被害が続いたため、南伊予村長であった武智惣五郎が「成否はもと より天にあり、吾れ死すとも辞せず」という決意の もと、私財を投入し、大谷池築造に取り組んだ。その年「伊予郡南伊予村3ヶ町村用排水改良事業」として着工したが、室戸台風により基礎工事 が崩壊し、その上岩質がもろく、漏水防止工事は困難をきたした。着工後も、日中戦争から、第二次世界大戦での資金不足で1942年(昭和17年)に「愛媛 県営事業」に移行した。 の べ人数37万3000人の村民が奉仕的に人力作業に従事した後、1942年(昭和17年)4月に竣工した。 胸熱だなあ。 |