20.10.20運開
清津川の利水
上流の発電はこちら。
現状では桔梗原頭首工から桔梗原用水と大場頭首工と大谷内ダムが対象である。
出典:https://www.maff.go.jp/hokuriku/news/print/attach/pdf
[新
潟県]
施設の受益地は2段の段丘※1からなり、段丘の低位部は標高約230mの桔梗原、高位部はそこから一段上がった標高300~500mの波状台地です。
清津川の水を桔梗原頭首工(標高約300m)から取り入れ、段丘沿いの断崖を縫うように開削された桔梗原用水(延長9km、うち隧道[トンネル]
3km)により、低位部の約190haの農地を潤しています。
一方、桔梗原用水の一部を十日町市程島地内の清津川揚水機場から、高低差約170mの高台へ1.2立法メートル/sの用水をポンプアップして、高位部の
約260haを潤しています。
<江戸時代>
1700年代前半、桔梗原は僅かな畑と田畑の肥料や牛馬の飼料用草刈場、薪炭・材木採取場となっている原野だった。河岸段丘である当時の耕地は、地形の特
性上、用水を雨水や僅かな沢水、湧水に頼る他なく、頻繁に水不足に悩まされ、新田開発も困難な状況。
1700年代後半になると、水不足解消のため、清津川から取水して用水路により導水し、さらには桔梗原の新田開発も試みようという計画が度々持ち上がりま
した。そのため、幕府の力による御入用普請※2(用水路延長6500m)や、自普請※3のための許可(用水路延長2900m)など、代官所への願い出が何
度もなされた。
※2 御入用普請: 幕府側が費用負担して、水路の建設・修理、橋梁の掛替などの工事を行うこと。
※3 自普請: 農民が自身で費用負担して工事を行うこと。
1785年(天明5年)、幕府の普請奉行が桔梗原に着目し、在郷の庄屋「五郎兵衛」他3名が開発引受人(出資者)となることで、ついに東田尻を取水地点と
する清津川からの取水計画が実現し、用水路工事及び開田工事に着手しました。
水路の総延長は2900間(約5300m)で、このうち繰り穴(トンネル)が1100間(約2000m)、その他も急斜面の断崖などを掘り通すもの
着手の翌年の1786年(天明6年)3月に水路は完成しましたが、用水路や田の漏水がひどかったため水がいき渡らず、田40haの整備を終えたものの、ま
ともに耕作できたのは4ha程度でした。
加えて、桔梗原170haの開田計画がありましたが、到底着手できない状態だったといいます。
地元農家は、用水路の漏水解消と通水量増加のために、幕府に御入用普請を再三願い出ましたが聞き入れられず、この桔梗原170haの開田計画の実現は、大
正時代迄下る事になる。
<大正時代>
清津川からの取水量の増量と桔梗原の残りの未開地を開田する計画は、1922年(大正11年)に設立した「田沢村耕地整理組合」により実現
工事の内容は、総面積175.5haの耕地整備と取水地点の上流部への変更、堰堤・隧道の新設、既設水路の改修などで、1939年(昭和14年)まで行わ
れました。これにより、田は5~7a区画に整備されました。
<昭和時代>
清津川右岸段丘地の開発 … 清津川揚水機場から揚水し灌漑している段丘の高位部260haは、昭和41年~昭和48年の「県営清津川右岸段丘総合パイ
ロット事業」により整備された。
桔梗ヶ原頭首工・桔梗原用水[新
潟県]
桔梗ヶ原頭首工
取水口2.169㎥/秒.
桔梗原用水路の総延長は約9キロ、その内、開水路が約6キロ、随道が約3キロあります。
開水路の大きさは 巾1.2メートル、深さ2.3メートル
桔梗原用水は、今からおよそ230年前の天明5年(1785)に工事に着手し、2年間で9キロが作られました。
約150ヘクタールの新田が開発され
事業に尽力したのが、村山五郎兵衛という庄屋さんで、「五郎兵衛大明神」として近くの神社に祀られています。
桔梗原用水路は、清津川揚水機場で用水の一部を分水してから、開水路から随道になります。
昭和57から平成7年にかけて、県営ため池等整備事業によって、コンクリート製のトンネルへと生まれ変わりました。
随道の高さは、1.8メートルとなり、
朴木沢立坑 随道の途中には、管理用の立坑があります。
頭首工は流雪溝用水を供給するため、真冬でも河川からの取水を続けている。[新
潟県]
清津川揚水機場[新
潟県]
清津川揚水機場は、毎秒1.2トンの農業用水を直径500ミリの多段ボリュートポンプ(原動機1350キロワット)2台により164.35メートル揚水
し、中里の台地の大部分を潤しています。
管の直径は900ミリ
揚水機場から台地までの延長が756メートルあります。
昭和40年から48年に「県営総合農地開発事業 清津川右岸段丘地区」で設置されたポンプ
揚水機場から水田までの高低差164メートルは、当時、東洋一と言われました。
中里土地改良区が管理
釜川
大場頭首工[新
潟県]
取水量1.67m3/秒
頭首工は河川を堰上げて取水するのが一般的ですが、この頭首工のある釜川は急流で堰上げできないことから、河床に埋設した導水管路へスクリーンで水を取り
込むチロル式という取水方法が採用さてれいます。
この頭首工から管径110センチのパイプで5キロ下流の大谷内ダムまで用水が運ばれます。
大谷内(おおやち)ダム[便覧][jichiro.mydns]
河川 信濃川水系釜川
目的/型式 A/アース
堤高/堤頂長/堤体積 23.2m/1780m/494千m3
流域面積/湛水面積 17.4km2 ( 直接:0.4km2 間接:17km2 ) /19ha
総貯水容量/有効貯水容量 1206千m3/1200千m3
ダム事業者 北陸農政局
着手/竣工 1975/1989
常時満水位: EL.653.50m
貯水池全てが堤体で囲まれおり、堤長1,780メートルは、日本一。[新
潟県]
大谷内ダムは、まず、昭和24年からの国営津南原開拓事業で、大谷内ため池として新設され、次に国営苗場山麓第二地区で、現在のダムの形となった。
ため池として整備された当時の貯水量は、現在の3から4割程度でした。